日本武尊と弟橘媛 物語(少年少女向き小説)

  日本武尊(やまとたけるのみこと)・弟橘媛(おとたちばなひめ)
                                
 みなさんは、日本武尊という人の名前を聞いたことがありますか?
 古い歴史ある国はすべて、「その国を統一した英雄(えいゆう)」が存在し、代々語り継がれています。
 日本も例外でありません。
 ここでは神話および伝説について記録(きろく)した、日本最古(さいこ)の本、「古事記(こじき)」と「日本書紀(にほんしょき)」の中の主として、日本武尊と弟橘媛のお話をします。

 日本武尊は、第12代景行(けいこう)天皇(てんのう)の双子の兄弟で、兄を大碓命(おお うすのみこと)、弟を小碓命(お うすのみこと)といい、この小碓命が後の日本武尊です。
 天皇が召使(めしつかい)にする予定の女性を兄の大碓命が自分の召使にしてしまいました。
 兄は、それ以降朝の食事に出なくなりました。
 ある日天皇は、「お前の兄は、近頃朝の食事に顔を出さないが、そなたから食事に出るように伝えよ。」と仰せになりました。
 ところが何日たっても、兄は姿を見せないので不信に思った天皇は「そなたは、兄に伝えたのか?」とお聞きになりました。
「はい、伝えました」、小碓命は、静かに箸(はし)を置き、語り始めました。
 「朝、厠(かわや)から出るころを待ち構え、手足をもぎ取り、菰(こも)に巻いて、川に捨てました。」語り終えるとまた箸を取り、静かに食事を始めました。
 女と間違えられそうな小碓命から、こんな恐ろしい話を聞かされた天皇は、小碓命が恐ろしくなり、小碓命を避ける目的で、九州で大勢力を持つ、熊襲武(くまそたける)を成敗するようお命じになりました。
 九州に来てみると、天皇より与えられた軍勢では、とても熊襲武の大軍勢に立ち向かことなどできません。
 そこで一計を案じ、女装して宮中に忍び込みました。
 大勢の女性がいる中で、「一人の美しい女性」に気づいた熊襲武は、自分の近くに招き寄せました。
 熊襲武に近づいた女装の小碓命は、いきなり熊襲武を組み伏せます。
 剛力(ごうりき)の熊襲武が跳ね除けようとしても、びくとも動きません。
 「うむ、そちは噂に聞く小碓命に違いない! こうなると致し方ない! 我が首を跳ねよ! 以後は、ヤマトタケルと名乗るがよかろう!」、このようにたった一人で熊襲を屈服させた小碓命を人々は以後、尊敬の気持ちを込めて日本武尊(やまとたけるのみこと)と呼ぶようになりました。
 そして、命じられていなかったが、同じく大勢力があった出雲(いずも)地方まで平定し、更に西日本全体をほぼ平定し、大和(やまと)の都に帰ってきた日本武尊に対し、天皇は更に東北地方を平定するよう命じられました。
 天皇の命に、誰も逆らえません。

 遠征で心身共に疲(つか)れ、失意(しつい)での遠征であった日本武尊でしたが熱田神宮(あつた じんぐう)に着いたとき、皇室から派遣された特別の巫女であり、伯母(おば)の倭媛(やまとひめ)は、尊(みこと)を哀(あわ)れに思い、慰(なぐさ)めるため、そして勇気を与えるため、歴代熱田神宮に伝わる最も重要な宝である、須佐之男命(すさのおのみこと)が頭が八つある八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時、大蛇の尾から出たといわれる 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を尊(みこと)に貸し与えました。
 そして、何か災難があったとき、「開けなさい」と小さな袋も与えました。
 更に妃(きさき)として美しい弟橘媛(おとたちばなひめ)を尊(みこと)に授(さず)けました(なお当時複数の妃(きさき)を持つことが普通でした)。
 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を腰にした日本武尊は、新たな勇気が湧き、多くの防人(さきもり)たちと共に、東北地方へ向かって進みまました。

 相模(さがみ)の地に着いた時、すでに日本武尊の名は、知れ渡っていました。
 土地の豪族たちから盛大な歓迎を受け、さらに歓迎のため狩に誘われました。
 狩のため平らな草原に着いたとき、
 「ここは猪(いのしし)・鹿(しか)が大変多いところです。我々が風下から猪・鹿を追い込みますので、尊(みこと)さまには、風上から弓矢で射止めていただきとうございます。」
 「お妃(きさき)の弟橘媛さまには、さらに風上の安全な場所で、尊さまの猪・鹿を仕留(しと)める様子をご覧ください。」
 「我々が猪・鹿を追い込むまで、しばらくこの地でお待ちください。」
 言われるまま、日本武尊は風下から豪族たちが追い込んでくれるであろう猪・鹿が現れるのを待っていました。
 しばらく待っている間、そのときです。風上からパッと火の手が上がりました。
 「しまった、謀(はか)られたか!」

 もう風上の弟橘媛の姿は、煙で見えなくなっていました。
 「媛(ひめ)! 弟橘媛はどこにいる!」
 「はい私は、ここにいます!」もう火は、弟橘媛の近くまで迫っています。
 「媛! 弟橘媛は、どこだ!」
 「私はここです! 私はここです! ・・・」


 「おお媛! ここか!」
 「はい、尊(みこと)さま!」二人は抱き合いました。

 火は三方向から迫っています。ただし、風下だけ火の手がありません。
 風下に逃げればいいのですが、そこは豪族たちの弓矢が待ち構えており、もう逃場がないと悟(さと)った日本武尊は、何か災難があったとき、「袋を開けなさい」といわれた倭媛(やまとひめ)の言葉を思い出し、袋を開けてみるとそこに火打石(ひうちいし)がありました。
 何故(なぜ)、袋の中に火打石が入っていたのでしょうか?
 火打石の火花(ひばな)は「魔除け(まよけ)の力(ちから)」があると広く信じられていたからです。だから倭媛(やまとひめ)が、尊の身の安全を祈って与えたのです。

 そこで大和武尊はすべてを判断しました。
 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)をさっと一振り、枯れ草を切り取り、それに弟橘媛が火打石で火を付けました。
 火は、風にあおられ、風下に向って燃え広がり、豪族たちを襲います。
 豪族たちは逃げるだけで精一杯です。
 日本武尊と弟橘媛は、3方から迫る火に対し、焼跡(やけあと)になった地を踏み固め無事でした。 

 まるで火の中から現れたような日本武尊の姿に、豪族たちは恐れ、今度こそ大和朝廷に従うことを誓いました。
 これ以降(いこう)、その地を焼津(やいづ)と呼び、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになりました。

 色々のことがありましたが、日本武尊はなおも、海岸線上を東に向かって進んでいきました。
 日本武尊が、走水(はしりみず)の海岸(現在の神奈川県横須賀市の南)に着きました。
 そして遥か海の先にある房総(ぼうそう)半島(はんとう)の山々を眺(なが)め、「こんな海は一跨(ひとまた)ぎだ!」、空は日本晴れ、絶好の航海日和です。
 防人(さきもり)たちも喜び勇んで船に乗り込みました。
 船はゆっくり対岸に向かって進みます。
 歌自慢の一人の兵士が、歌いだしました。

 大和(やまと)は、国のまほろば
 たたなずく青垣(あおがき)
 山こもれる
 大和し、うるわし

 その時見張りの兵士が、大声をあげました。
 「前方に、黒雲見える! 大風が来そうだ!」
 その見張りの兵士が言う通り、いきなり大風が日本武尊たちの船団を襲(おそ)いました。海は大荒れ、日本武尊の船は、木の葉のように揺(ゆ)さぶられ、今にも沈みそうです。
 これは、「海の神の怒り」に触れたからでしょうか?
 古代の人たちは、そう考えるのが普通でした。

 この場合、どうすれば良いのでしょうか?
 それは誰か一人、人身御供(ひとみごくう)、人柱(ひとばしら)になれば、「海の神の怒りが静まる」のです。
 人身御供、人柱に関する伝説は、日本各地の神社に幾つか残されています。
 そのとき、真っ先に人身御供になることを申し出た人がいました。
 それは、弟橘媛です。

 「媛(ひめ)! 何を言うのだ!」
 「人身御供を申し出る者は、以後いくらでもでる。」
 「人身御供になった者は、神社に祭られ、故郷の誉れ、一族の誉れ、本人の名誉!」
 「その者たちに、人身御供を譲(ゆず)り、そなたは下(さが)りなさい!」
 「いいえ、私は下りません!」弟橘媛は、凛(りん)として言い放ちました。
 「尊(みこと)! あなたは私が、相模(さがみ)で火攻めにあったとき、真っ先に、私の名を呼んで下(くだ)さいましたね。」
 「私は、あの時の[恐ろしさ!]と[嬉しさ!]、今思い出しても泪(なみだ)が浮かびます。」
「ここで一句(いっく) 詠(よ)ませてください。」

 さねさし
 さがみの小野に
 もゆる火の
 火中に立ちて
 問いしきみはも

 「こんな形で、[尊(みこと)の愛]を[私の愛]でお返しできるなんて…、多くの防人の命が救えるなんて…、こんな嬉しいことはございません!」
 「私は、日の本一(ひのもと いち)の幸せ者です!」
 「この嬉しさ! この幸せ! 誰にもお譲(ゆず)りできません!」
 これにはさすがの日本武尊も、どうすることもできません。

 そして古式どおりの「入水の方式」により小さな敷物(しきもの)を海に浮かべ、そこへ弟橘媛は、手を合わせ飛び移られました。
 荒波はたちまち媛を飲み込み、媛の姿は海の中へ消えていきました(その時、何人かの侍女も、身を投じたといわれています)。

 すると嵐は収まり、波も次第に静かになり、海流はまるで走水(はしりみず)のように日本武尊一行を千葉の海岸へ運んでいきました。
 そして日本武尊は、すぐ土地の豪族を平定し、大和朝廷に従うことを誓(ちか)わせました。
 そののち日本武尊は、木更津(きさらづ)の高い山に登り、海に向かって「ああ、妻(つま)! 弟橘媛!」と大声で叫びました。

 その大声の先にある走水では、こんなことが起っていました。
 何と、弟橘媛が海に身を投げたとき、髪(かみ)に挿(さ)していた櫛(くし)が流れ着いたのです。
 舟出した土地に帰ってきた櫛(くし)に対し村人たちは、媛(ひめ)の心を哀(あわ)れに思い、その櫛(くし)を末永く伝えることにしました。

 現在、走水神社には、日本武尊と弟橘媛の御霊(みたま)が、祀(まつ)られています。
 今でも多くの女性が走水神社を訪れ、海を眺(なが)め、涙ぐんでいます。
 そして走水神社にお参りした女性は、「女性力が向上し」「良縁に恵まれる」といわれています。

追記
 大和に帰ったときは、次の天皇を約束されていた日本武尊でしたが、大和に帰る途中の伊吹山(いぶきやま)で病(やまい)に倒れ、亡くなられました。その後、草薙剣(くさなぎのつるぎ)は熱田神宮へ返納され、今も大切に保管されています。
 そして大和で育てられていた日本武尊の子供がやがて成人し、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇として即位(そくい)しました。
 すなわち、日本武尊の血を「正統」として受け継いでいるのが現在の天皇家です。
 なお臣下に降下しただけで、日本武尊の血を受け継いでいる家系は、全国で数多く存在していると考えられます。
 全国には、何らかの言い伝えがあって、日本武尊と弟橘媛を祭る神社は、数多く存在しています。

 実はこの小説、「一人でも多くの少年少女に読んで貰いたい」ため「絵本」にしたいという構想をもっています。どなたか、協力してくださる方は、おられませんか?